万国監獄博覧会の謎〜その3

前回は、監獄博覧会への出品物を確認し、「まるで美術展のようになってしまった」という監獄博覧会の日本の様子を想像してみました。
欧米各国と比べて浮いてしまったであろう我が国の出品物ですが、本当に冷評だったのでしょうか。
今回は、海外に残っている記録からそのことを確認してみます。

海外は日本の出品物をどう見たか

実際、海外から日本の出品物はどう見えていたのか。冷評していたとする欧州の新聞記事を見つけることはできませんでしたが、ロシア及びアメリカの資料を見つけることができたので共有します。

まずは、ロシアの記録です。
第4回万国監獄博覧会に関して、当時の様子がわかる図や写真の入手が難しく、唯一見つけられたのがロシア語で書かれた『ИСТОРИЯ РОССИЙСКИХ ВЫСТАВОК(Google翻訳:ロシアの展覧会の歴史)』(2009年)という比較的新しい資料です。
当該資料には、以下のような日本に関する記述が見られました。
※記事投稿者はロシア語ができないためGoogle翻訳に頼りました。

Витрина Японии, небольшая по величине, восхищала тонкостью и изяществом предметов: резных изделий из дерева, изображающих рисунки археологических древностей, ковров, черепаховых запонок, иных, не менее занимательных вещиц.
「サイズの小さい日本のショーケースは、オブジェクトの繊細さとエレガント感に賞賛されました。考古学的な古美術、カーペット、カメのカフリンクス、その他の楽しいギズモです。」
(※注:Google 翻訳)

サンクトペテルブルグでの監獄博覧会のメインエントランス

ギズモって何でしょうかね。ネットで検索すると「グレムリン」の画像がたくさん出てくるのですが、出品物には妖怪の置物などがあったので、ロシア人から見ると何か奇妙な生物を見たのでしょうか。

また、アメリカの記録としては、ワシントン州政府が1891年に発行している記録「The Fourth International Prison Congress St. Petersburg, Russia」 という記録を見つけました。
以下のような記述があります。

The display from Japan was interesting and well conducted. That country has given close attention to the study of prison questions. Among the most practical submitted to the congress were those from that Government.
「日本からの展示は興味深く、うまく実施されていた。日本は、刑務所の問題に関する研究に細心の注意を払っている。万国監獄会議に提出された最も実用的なものは、日本のものであった。」

C.D.Randall, 1891,“The Fourth International Prison Congress St. Petersburg, Russia”(Official Delegate from The United States, Washington Government Printing Office)

必ずしも低い評価ではなかった!?

このように海外の記録を見ていくと、必ずしも低い評価を受けているわけではなく、むしろ、好評価を得ているようにも思われます。
万国監獄博覧会の謎〜その1」で紹介した1890年9月30日読売新聞記事や出品物の一覧表にもあった通り、売れたことは確かであり、他国と比べて浮いてはいたかもしれませんが、海外の関心を引いたことは確かではないでしょうか。

日本は、当時、欧米各国に学ぶ近代化を目指していたこともあり、その見本となる欧米各国と比べて浮いてしまったことを反省したものの、実際には海外に評価されていました。『博覧会の政治学 まなざしの近代』(吉見俊哉)によると、このようなすれ違いは、1862年のロンドン万博でも起きています。

1862年のロンドン万博当時、日本の出品をサポートしていたのはイギリス公使のオールコックでしたが、彼は日本で収集した漆器や陶磁器、七宝、書画骨董、甲冑刀槍類から燈籠や提灯などの900点の物品を出品しています。ロンドン万博に出向いた遣欧使節団のひとり淵辺徳蔵は、そのことについて「全く骨董店の如く雑具を集めしなれば見るにたへず」と嘆いているが、実際はロンドンっ子たちのエキゾティシズム(オリエンタリズム)を刺激し、イギリスの画家レイトンも賞賛したといいます。

こうした日本の工芸品への賛辞が、5年後のパリ万博や11年後のウィーン万博でさらに増幅し、ヨーロッパ各地でジャポニズムを流行させていきます。吉見俊哉によれば、この1873年に開催されたウィーン万博がモデルスタディとなって、ウィーン万博から「博覧会とは何たるか」を完全に学びとり、日本の内国勧業博覧会へとつながったとされます。

こうした流れを組んで、1890年は第3回内国勧業博覧会が開かれると同時に、万国監獄博覧会への参加に至っており、受刑者らがつくった「工芸品」や「美術品」がジャポニズムの人気を背景に、評価されていたといえないでしょうか。

(終わり)