万国監獄博覧会の謎〜その1

「万国監獄博覧会」とはいったい何なのか。
本稿では、残されているわずかな記録から、全3回に分けてその謎にせまりたいと思います。

「万国監獄博覧会」の記録

1890年(明治23年)6月に、ロシアのサンクトペテルブルグで「万国監獄博覧会」が開かれたという記録が、以下の通り『大日本監獄協会雑誌』に残っています。
※『大日本監獄協会雑誌』は、矯正図書館のWebサイトから閲覧ができます。

「農商務省ノ報告ニ拠レハ千八百九十年六月露京聖比得堡府ニ於テ萬國監獄會議ヲ開クニ際シ萬國監獄博覽會ヲ開設スルニ附キ本邦モ之ニ参同スルタメ目下各監獄囚徒ノ製造品等採集ニ着手中ナリ」
(「大日本監獄協會雑誌第23号」、明治23年3月)


「大日本監獄協会雑誌第23号」(大日本監獄協会、明治23年3月)

同年の1890年4月には、日本の上野公園で第3回内国勧業博覧会が既に開催されており、西洋からやってきた「博覧会」という「モノを集めて人々に見せる」仕組みが日本にも定着し始めたころ、この特殊な博覧会に日本は参加していました。

開催後の同年9月30日の読売新聞記事には以下のような記述があります。

「日本の出品は甚だ少なく僅に五十五種あるのみにして其出品も少々各国と趣を異にし二三の書籍を除くの外概ね皆囚徒の製造に係る華美珍奇の品にして傍に監獄又は囚徒服業の状景を示す図面雛形の類全くなきを以て其物品は囚徒数人の工技風致の妙を徴するも囚徒一般服業の情況を表するに足らず恰も工藝品の展覧に似て観る者をして我国の獄事進歩の度を知らしむるに由なかりしは頗る遺憾とする所なり然れども我出品は此會に於て殊に衆人の聲譽を得開會の当日より人争ひて之を買取りし翌日に至りては巳に一品を残さず警視庁の出品に係る七賓焼花瓶の如きは皇帝、大阪府の出品に係る黒檀製の茶棚及大分県の出品に係る花莚の如きは皇后の御買上となれり…」
(1890年9月30日読売新聞記事)

全国各地の監獄から囚人の製造品を収集して出品したものの、欧州諸国の出品物に比べて趣が異なり、まるで「工芸品の展覧会のようだった」という大変興味深い記述です。

同博覧会から3年後となる明治26年の『大日本監獄雑誌』にも、「監獄博覧会の主意を失し、むしろ美術博覧会のごとし」と、同じような言及があります。

「去る明治二十三年露國に於て開設したる萬國監獄博覽會は各國競ふて其製造品を出品したる事とて頗る盛大に且つ最も有益なりし而して其我國より出品したるものに就ては遺憾ながら評判甚た面白からさりしなり是古来未曾有の事とて其の様子を聊かも知らされは敢て無理はなき事なり當時我國の出品物に就て歐洲の諸新聞雑誌等は冷評して曰く日本の出品物は監獄博覽會の主意を失したり寧ろ美術博覽會の出品物に適當ならんと豈残念千萬ならすや」
(木村良承「萬國監獄博覽會に就いて」、「大日本監獄雑誌第56号」、明治26年1月)

現在も日本各地の刑務所で「矯正展」が開催されており、受刑者による刑務所作業製品は高い人気を博していますが、その職人技を見るにつけ、欧米各国の出品物に比べ「工芸品や美術品の展覧会」のようになってしまったことは想像にかたくありません。

そもそも万国監獄博覧会とは

国際刑務委員会が主催する「国際刑務会議(International Prison Congress)」がかつてはありました(日本の記録では「万国監獄会議」と呼んでいるようです)。
第1回の開催はロンドン(イギリス)から始まり、サンクトペテルブルグ(ロシア)での開催は第4回国際刑務会議に当たります。同会議は、1950年にハーグ(オランダ)で開催された第12回目をもって終了しています。

「万国監獄博覧会」は、第4回目の万国監獄会議の開催にあたって、付随して実施された博覧会のようです。第4回が開かれた場所は、サンクトペテルブルクの中心部に今もある「マネージュ広場(Манежная площадь)」です。

現在のマネージュ広場(サンクトペテルブルグ、ロシア)

第4回の参加国については、『大日本監獄雑誌』から読み取れる範囲として、プロイセン(普魯西)、ドイツ(獨逸聯邦)、ベルギー(白耳義)、フランス(佛國)、イギリス(英利吉)、アルゼンチン(アルジャチーヌ共和国)、オーストリア(墺土利)、イタリア(伊太利)、スウェーデン(端典)、スイス(端西)、デンマーク(丁抹)など、ヨーロッパ各国とロシア、そして極東の日本が参加しているようでした。
それ以前や以後にも、同様の博覧会があったかは定かではありません。

(続く)

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