「矯正展」に行くと、全国各地の受刑者らの手作業製品(地域の特色を感じるもの)が多く見られます。また、買うことができます。文具や食器といった小物から、ソファやタンス、キッチンテーブルといった大型の家具まで、様々です。
いったいなぜ、このような「矯正展」が開催されるようになったのか、
『図鑑 日本の監獄史』(重松一義、昭和60年4月)から、刑務作業の歴史とその展示・販売の歩みを確認します。
矯正展へと至る歴史
明治五年の監獄則第12条で既に製作物品を販売して、これを官に領置することを法定していますが、その販売方法には触れられていません。販路の実情として、各懲役場ごとに異なり、個人に売捌方を委任する例(山口県)や、民家を借りて物品売捌所を設け、懲役場小使に担当させる例(徳島県)など様々であったようです。
こうした販路の法的保障は、明治以降現在に至るまでまったくなく、民間への委託販売による各所の販路開拓と展示即売会に依存していました。
展示即売会と名乗る由来は、明治9年7月「明治天皇盛岡市にご駐輦の際、盛岡町役馬より囚徒の製作に係る蝋燭、樺の煙管、桐煙草盆、小田原提灯、踵掛、草鞋、莚藁簑を他の県下物産と共に天覧に供し奉れる」という記録があり、こうした機会に一般社会の認識を新たにし、次いで、明治14年4月の第2回内国勧業博覧会に全国監獄懲役人の製作品を出品展示し、これが本格的な日本の刑務所作業製品展示会のはじまりと考えられます。
その後、大正期に入るまで大規模な催しがなく、大正11年7月の上野での平和博覧会に巣鴨監獄製の自転車が銀牌を受賞、監獄作業製品の技術水準を世に伝えました。
以降の現在ある矯正展へとつながる年表を次表の通り整理してみました。
刑務作業製品の展示即売会の歴史年表
刑務作業の歴史
『図鑑 日本の監獄史』(重松一義、昭和60年4月)によると、日本の最初の監獄法は明治5年に頒布された「監獄則並図式」(太政官達第三七八号)であり、これにより懲役は浅葱色の囚人服に統一され、徒囚の服役に五等の技能別累進階級制度を採用し、その工銭は殊芸者(技能保持者)一日百文、中級五◯文、下級二五文と日給を定めました。
この時は「殊芸者(技能保持者)」の優遇が著しいが、その後、明治22年以降は重罪・軽罪により料定率を区分し、明治32年以降は初入者・再入者の区分を加えています。
しかし、明治41年監獄法では、この工銭制度を廃止し、作業賞与金計算高という行状と作業成績によって恩恵的にその額を定める方式へと改定しています。明治の初期には、北海道の中央道路開削工事に代表されるような、囚人による外役(土木作業、鉄山鉱業など)が主でしたが、外役作業中の逃走事故が増えるなどの背景から、明治20年代から次第に外役は縮小し、内役という監内作業を主とするようになっていきました。
外役が全盛の時代には、苦役な労働もあったものの、囚人たちが外に出て一般の人々の前に出ていたことにもなります。明治20年代以降、行刑当局が積極的に進めた外役縮小策は、逃走事故を減らす目的のみならず、そもそも外役のような弛緩した様態の身柄拘束は、自由刑の観念とは相容れないとする考えが強くあったとされます 。
内役重視化に伴い、囚人たちは塀の中へと閉じられていくようになり、ミシェル・フーコーが監獄の近代化として指摘するような刑罰の不可視化・囚人の管理(規律訓練)へとつながっていきました。
しかし、明治22年監獄則施行細則では「刑期5分の3を経過」して、釈放時期が近づいた者には「出獄後自活ノ道ヲ得ヘキト認ル」作業を賦課すると規定されていた(45条) ことからも、刑罰として自由を剥奪する意味合いでの刑務作業から、社会復帰を支援する意味合いも含む刑務作業への変化も見られるとも考えられます。
また、機械作業の進展に関しては、日清戦争(明治27年頃)の第一次産業革命期は製糸・紡績等の軽工業部門において蒸気機関を動力とした機械化が進み、日露戦争(明治37年)前後の第二次産業革命期には、造船・兵器製造等の軍需事業を中心とした重工業部門において電気動力の導入が本格化しました。
こうした一般社会での趨勢を背景に、明治後期以降、刑務作業の分野でも機械導入の可否が議論されました。当時の行刑当局にとっては、刑務作業の機械化に消極的で、手工業を以てよしとする姿勢に固執していました。その理由は次のように述べられています。
「監獄に在ては努めて機関的工芸を避くるの方針を取るを要す。何となれば機関的作業は其衆力の協同を要する点において、既に行刑の本旨に適せざる所あるのみならず、たとひ能く之に習熟するも単力、以て其の業務執る能はざるが為めに之に困り将来、自活を得るに至らしめんこと(中略)故に監獄作業としては、靴工、裁縫工、製本工、指物工、洗濯工、抄紙工、鍛冶工、木工、竹工、挽編工、塗物工等成るべく手芸的作業に属する種類のものを選定する所あるを要す。」
(小河滋次郎『監獄法講義』、明治45年、巌松堂)
機械作業では、独力で自活する能力は身につかないのではないかとするような上述の理由に加え、民業圧迫の声もあり、明治後期においては、行刑当局も産業界も共に刑務作業の機械化は望まなかったのです 。これは、大正期にはいってもなお根強く残り、工場労働が一般化して産業構造が変わっていくに従い、刑務作業の機械化が進むも、現在でもなお、矯正展を訪れると手作業製品が多いように感じられます。
※ 参考文献 :『行刑の近代化 刑事施設と受刑者処遇の変遷』(小澤 政治 著、2014年4月、日本評論社) 、 『図鑑 日本の監獄史』(重松一義、昭和60年4月、雄山閣出版)