今年の「あいちトリエンナーレ2019」におけるひとつの展示企画「表現の不自由展・その後」が話題になりました。現在もさまざまに議論が展開されていますが、「表現の自由」ということを考える大きなきっかけとなりました。
そこで、本記事では「犯罪加害者の表現の自由」について考えてみたいと思います。
※「あいちトリエンナーレ」についての記事ではありません。
そもそも「表現の自由」とは
日本国憲法
〔集会、結社及び表現の自由と通信秘密の保護〕
第二十一条 集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。
2 検閲は、これをしてはならない。通信の秘密は、これを侵してはならない。
そもそも、「表現の自由」はなぜ基本的人権として保証され、また、こんなにも重視されるのでしょうか。表現の自由(あるいは広く精神的自由)は、人権体系の中でも優越的地位を占めるという理論(優越的地位の理論)があるほどです。
志田陽子さんの『表現者のための憲法入門』を参照しながら、まずはそもそも「表現の自由」って何の意味があるのかをみていきます。
志田さんによると、「表現の自由」を保証する意味は、次の3つに整理されます。
(1)個人の人格的存在を支えるものとして
20世紀以降、人間の精神・人格は「他者とのコミュニケーションによって形成されていくものだ」ということが当たり前になりました。そのため、各人がその人格形成過程において、自分なりの判断力をもって社会にあふれる情報を受け止め、表現し、さまざまな自己決定を行っていく必要があります。したがって、「表現」は、個人の人格形成と発展、自己実現のために不可欠のものであるからこそ、その自由を保証する意味があるのです。
(2)社会にとっての価値
(2)-1 民主主義をささえるものとして
これは、「あいちトリエンナーレ」でも擁護派が主張していた価値ですね。「表現の自由を脅かすのは民主主義の危機だ」などとTwitterにも多く流れていました。民主主義とは、形式的に言えば参政権と選挙制度によって支えられ、議会における発言の自由のルールが整備されているものですが、それでは十分でないといいます。つまり、選挙で国民がなんらかの選択をするために、十分な情報を得る必要もあるし、他者と政治的問題について議論する自由=「表現の自由」があるのです。
(2)-2 共存と発展、暴力克服の道として
新たな社会問題や知識の発見は、伝達され共有されなければ、埋もれてしまい、解決の道も閉ざされてしまいます。そのため、その伝達ルートを「表現の自由」によって開いておくことで、暴力によらない問題共有と問題解決、社会の発展が可能になります。
(3)デリケートな権利
「表現の自由」は、壊れやすい弱い権利であるといいます。何らかの意見表明をしたことで、例えば就職できなくなるとか、刑罰を受けるとか、無視されるとか、叩かれるとか、展示が中止になるとか…
そうした経験が一度でも生じると、人々は不利益を被ってまで表現をしようとしなくなります。国家は「表現の自由」のこの弱さ、デリケートさを考慮しなければならず、表現の萎縮効果を生むような法律の制定や解釈・運用をしてはならない、と考えられているようです。
表現の自由の限界
以上の通り、個人にとって・社会にとって重要な「表現の自由」は、デリケートな権利であるからこそ、国家もそれを考慮しなければなりません。しかし、限界もあります。
これはよく言われる通り「公共の福祉に反しない限りにおいて」権利は保証されるというものです。あるいは、人は権利を濫用してはならないという考えですね。
「公共の福祉に反する」とは、具体的には「他者の権利を侵害する」ことです。例えば、他者の名誉=社会的信用を傷つけるような表現は名誉毀損と言われたり、他者の「プライバシーの権利」をむやみに侵害するような表現もまた、プライバシーの侵害となり、有名な判例・訴訟もあります。
例えば、ノンフィクション小説『逆転』事件(→Wikipedia)では、作中の人物が実名で描かれ、知られたくない前科について書かれたことに対する精神的苦痛を理由に訴訟を起こし、裁判所は、刑事責任を果たして社会復帰した人の過去の犯罪情報は、プライバシーに属するとの見解を示しました。
あるいは、差別表現やヘイトスピーチも表現の自由に対する規制の代表的な社会現象です。ドイツを中心とするヨーロッパでは、ヘイトスピーチを刑事罰の対象としており、ヨーロッパ諸国を中心に採択された「人種差別撤廃条約」では、各国にこの種の表現を刑事罰にするよう求める項目があるそうです。しかし、日本とアメリカは、一部の表現を刑事罰対象とすることについては、憲法で認めた「(一切の)表現の自由」に抵触するという考えから、この項目を留保にして条約に加盟している状況です。
前述の通り表現の自由は「デリケートな権利」であるからこそ、表現の萎縮を生まないよう、たとえ差別的な表現であろうと、刑事罰を設けることまでには至らない(あるいは慎重になる)、それほど尊重される大事な権利なのですね。このこと(刑事罰を設けないこと)は、当然ながら「差別表現も表現の自由だから許されるんだ」ということを意味するわけではありません。現行の法制度で対応できることも多いとされます。
したがって、「表現の自由の限界」は、他者の権利を侵害しない限りにおいて、ということを意味しますが、たとえ差別表現やヘイトスピーチであろうとも、刑事罰の対象とするまでには至っていない、表現内容に(国家が)制約をかけることには極めて慎重な議論が必要とされます。そのくらい、表現の自由は「デリケートな権利」として守られ、表現の萎縮を生むことを恐れています。
犯罪加害者の表現の自由
それではいよいよ、”犯罪加害者の”表現の自由を考えていきます。
本Webサイトでは、矯正施設における表現活動が国内外に数多くあることを確認してきましたので、基本的には犯罪加害者であろうと誰であろうと「表現の自由」は保証されているといえます。
本Webサイトで紹介してきたArts in Prisonの事例は、何らかの表現活動が更生プログラムとして取り組まれており、表現の自由を保証する意味合いとしては先ほど確認した3つの意味のうちの「(1)個人の人格的存在を支えるものとして」という部分が大きいかもしれません。
では、(民主主義)社会に対して犯罪加害者たちの表現というのは、どのような意味があり、また、どのような制約が生じてくるでしょうか。つまり、犯罪加害者達の表現は、特にその犯罪行為に関する表現には、公共の福祉に反する=他者の権利を侵害することがあるのでしょうか。そして、何らかの規制や法律が必要なのでしょうか。
サムの息子法
犯罪加害者の「表現の自由」を考えるうえで、有名な法律がアメリカ・ニューヨーク州における「サムの息子法」です。日本でも、神戸連続殺傷事件の元少年Aが2015年に『絶歌』を出版した際にも話題になりました。ここからは松井茂記さんの『犯罪加害者と表現の自由 「サムの息子法」を考える』を参照していきます。
犯罪加害者の表現に関する有名な法律ですが、これは、犯罪加害者の表現の中でも特に「自らの犯罪についての表現」において、その表現行為(主に出版)によって得る収益を剥奪する法律を広く指すもので、犯罪加害者の表現行為そのものを禁止するわけではなく、あくまで(犯罪に関する)表現によって得た「収益」を問題視しているものです(そしてその収益を被害者救済の資金に回すべきだとする考え)。
まず、「サムの息子法」ができた背景でもある「サムの息子」事件をみていきます。
1976年から1977年にかけて、ニューヨーク市の各地で女性を対象にした連続銃殺事件が発生しました。この事件で、加害者と思われる人物が自らを「サムの息子」と名乗り、手書きの犯行声明を残したことから、法律の名前の由来になりました。最終的に逮捕された、本名デビッド・バーコビッツは終身刑が宣告され、現在も刑務所に収容されています。(→詳しくはWikipediaへ)
この事件は、マスメディアの強い関心もあり、この事件のストーリーをバーコビッツが出版社や映画会社に売って高額な収益を得るのではないかという憶測が飛び、ニューヨーク州議会が対処する法律として提出したのが「サムの息子法」でした。
その狙いは、従来あった被害者救済と、犯罪を理由とする収益を阻止する仕組みを補充するものでした。
こうした法律が求められる背景には、当時から現在まで、さまざまな猟奇的な凶悪事件が大衆の関心を引き、本や映画となって公開され、多額の報酬が犯罪加害者に支払われることがあったからです。松井さんの書籍の中で紹介されているものだけでも、
- 『ボニー・アンド・クライド(邦題:俺たちに明日はない)』(1967年、アーサー・ペン監督、1930年代の銀行強盗を繰り返したボニー・パーカーとクライド・バローの物語)
- 『ゾディアック』(2007年、デイビッド・フィンチャー監督、1960年代に起きたゾディアック事件を題材としたもの)
- 『ヘンリー』(1986年、ジョン・マクノートン監督、1983年に逮捕された連続殺人犯ヘンリー・リー・ルーカスを題材としたもの)
- 『ゼロ・デイ』(2003年、ベン・コキオ監督、1999年コロンバイン高校虐殺事件の犯人である少年エリック・ハリスとディラン・クレボールド)
- 『ヘルター・スケルター』(1976年、トム・グリース監督、1969年のチャールズ・マンソン受刑者による事件)
- 『デリバレート・ストレンジャー』(マービン・チョムスキー監督、1986年、1970年代に30人以上の殺人事件を告白したテオドール・ロバート・テッド・バウンディ)
などなど、数多くあることがわかります。
サムの息子法は合憲か違憲か
「サムの息子法」は、1991年の訴訟において一度、合衆国最高裁による違憲判決が出されました。サイモン・シュスター対ニューヨーク州被害者救済委員会事件と呼ばれるこの訴訟の概要は次のとおりです。
作家ニコラス・ビレジは、元ギャングの一員ヘンリー・ヒルについて長年取材し、その数々の犯罪行為について描写した『賢い奴―マフィア家族の生活』という書籍を1985年に出版し、これが高く評価され、100万部以上発行されました。後にはマーティン・スコセッシ監督によって映画化され、『グッドフェローズ』(1990年)は1991年のアカデミー賞にノミネートされたほどです。
ニューヨーク州被害者救済委員会がそのことに気づき、出版社であるサイモン・シュスター社に対して、得た収益について被害者のための基金として提供することと、元ギャングのヘンリー・ヒルに支払われた金額を返還することを求めたのですが、サイモン・シュスター社はこの法律の違憲性を争って訴訟を提起したのです。
そして、最高裁においてオコナー裁判官は、表現内容に基づく表現の自由の制約は、合衆国憲法修正第一条(表現の自由を保証した項目)に合致しない=違憲と判断したのでした。
州は、犯罪による収益は被害者の救済に充てるものであること(その利益)は認識していますが、しかし、その「犯罪による収益」が、犯罪に関する犯罪者の表現活動からの収益だけに限定することを正当化する利益はないという判断になったのです。
しかも、犯罪の収益を被害者の救済に回すことを確保する手段として、「サムの息子法」はあまりに適用範囲が広く、過大包摂と考えられました。オコナー裁判官いわく、例えば、著名な人が人生の末に若い頃に些細な窃盗を働いたことを少しでも書けば、その書籍の収益はすべて対象になってしまうと。マルコムXの自伝も、マーティン・ルーサー・キング牧師の作品なども含まれてしまいます
この違憲判決については、賛否両論ありますが、好意的に評価する声の方が強いそうです。なぜなら、犯罪を犯して有罪判決を受けた人が、その犯罪に関して表現することに制約を及ぼしており、明らかに「表現内容に基づく規制」であり、違憲であるとの見方が強いからです。
他方、「サムの息子法」の合憲性を主張する側は、同法はそもそも誰かの「表現の自由」を制約するものではない、と主張します。なぜなら、犯罪加害者が犯罪に関する書籍を出版する契約を結ぶことを理由に刑罰を課すのではなく、出版契約をすること(表現行為)自体の自由は認めながら、そのことによって得た収益を犯罪加害者の当事者から剥奪するだけだから、というもの。
いわば、表現内容に対しての制約はかけていない、表現内容は問わず、表現されたものから得た収益を犯罪加害者から剥奪するだけだ、というのです。ここで、犯罪者が、どうせ収益が剥奪されてしまうなら表現をやめてしまおう、となるのかどうか(表現行為の萎縮が起こるかどうか)が問われてくるわけですが、これまで見てきたとおり、数多くの書籍・映画の事例があることから、そうした犯罪者による表現の萎縮の問題はないだろうという見方をしています。
その後の改正によって姿を変えるサムの息子法
違憲判決が出たことや、さまざまな問題点の指摘により、ニューヨーク州でのサムの息子法は、その後の1992年に改正されます。改正では、犯罪者による犯罪に関する表現行為からの収益だけでなく、犯罪に関するすべての収益を被害者の救済に充てるようにしました。適用範囲が広すぎるという問題点については、犯罪者が実際に有罪判決を受けた犯罪から得られた収益だけが問題とされるようになり、過去の些細な犯罪を本で語るといったことは適用されないこととなります。
こうして、この改正によって当初違憲判決が出された問題点を回避できたとする指摘もあります。
1992年の改正後、さらに様々な改正を経て、2001年の改正では、犯罪者が犯罪に由来して得た収益だけでなく、犯罪者が得たすべての資産にも被害者救済の余地が拡大しました。
このように、当初「サムの息子法」は、犯罪を犯して有罪判決を受けた人が、「犯罪に関して表現したことから得た収益を得るべきではない」という考えから始まりましたが、今となっては、表現行為に限定されることなく、犯罪に由来する全ての収益、そして資産までもが対象となり、「被害者の救済を確保する」という目的に力点が置かれるようになったのです。
まとめ
だいぶややこしくなりました。基本的なポイントを振り返ると、
- 表現の自由を保証する意味・理由は、個人の人格的存在を支えるものであり、民主主義社会にとっても価値があるものであり、また、侵害を受けやすいデリケートな権利であるから。
- だがしかし、公共の福祉に反しない限りにおいて=他者の権利を侵害しない限りにおいて認められる権利だからこそ、表現の自由にも限界はある。
- 表現の自由の限界は、名誉毀損やプライバシーの侵害、差別表現やヘイトスピーチといった事例に見られるが、それでも刑事罰を設けるまでには至らない(慎重になる)。なぜなら、表現内容に基づく制約を国家が課すことは、表現の萎縮をもたらしてしまうから。
- したがって、犯罪加害者であろうと表現の自由は当然認められており、「犯罪者による表現だから」「表現内容が不快だから、気に入らないから、危険思想だから」という理由だけでは、その表現行為そのものを禁止するようなことはできない。
※もちろん、被害者側の精神的苦痛による民事の損害賠償訴訟は可能である。 - また、当初の「サムの息子法」に見られるように「犯罪者がその犯罪行為について表現して収益を得るべきではない」という考えも十分ではない。犯罪によって得た収益を被害者の救済にあてることは大事だけれど、その犯罪によって得た収益について、表現行為による収益だけに限定する正当性はなく、表現内容に基づく制約と判断され違憲と考えられる。
- 「サムの息子法」は、犯罪者の表現行為を禁止するのではなく、あくまで表現行為の結果得た収益を犯罪者から剥奪するだけだから、表現内容の制約にはならないとする主張も可能だが、収益を剥奪されることで犯罪者が表現行為を行う意欲が削がれる可能性もある。
- こうした問題点を避ける場合、犯罪者の表現行為による収益に限定せず、犯罪に由来するすべての収益・資産を被害者救済にあてるとするのが、様々な議論と改正を経た現在の「サムの息子法」である。
と、このような感じでしょうか。
こうして様々な議論を見ていると、改めて「表現の自由」というのは相当に保証される権利だと感じませんか?
神戸連続児童殺傷事件の元少年Aの『絶歌』や、相模原市の知的障害者施設殺傷事件で起訴された植松聖被告とのインタビューをまとめた『開けられたパンドラの箱』など、その都度「犯罪者が犯罪行為を表現するなんてけしからん。被害者の気持ちを考えろ。しかも収益まで得るなんて信じられん!」などなどと、感情的・道徳的・倫理的には、わかるような主張ではあるものの、それでも彼らの「表現の自由」そのものは守られます。
なぜなら、犯罪者がその犯罪行為について書いたものの中には、例えば、犯罪に至ってしまったことの社会的背景の描写に新たな社会課題の発見もあるかもしれないし、現行の刑事司法システムの問題点を示唆するものもあるかもしれないし、誰もが犯罪加害者になりうる社会(特に交通事故など)であることが想像できれば、罪を犯した人がどのように立ち直り、社会復帰していくことができるのかを共有するものにもなるかもしれないなど、様々な可能性もあるからです。
「黒子のバスケ」脅迫事件において、渡邊博史が法廷で主張した「社会的存在と生ける屍」「人生格差犯罪」といった表現や、秋葉原通り魔事件での加藤智大が語った社会への絶望に共感した層がいたことなどを思い返すと、やはり彼らの表現の中から見つめなければならない社会の問題があることがわかります(もちろん、そのことによって彼らの罪が正当化されるわけではないとしても)。
だからこそ、メディアで話題になった元少年Aや植松聖の出版事例だけを見て、安易に「犯罪者の表現は制約するべき」などとは言えません。犯罪者が書いたものだから、不快だから、危険思想だから、そういった理由だけで表現内容に基づく制約はできませんし、仮にヘイトスピーチなどの問題から「表現の自由」に制約を求める場合にも、その議論は慎重になされなければならないのです。
なぜなら表現の自由はデリケートだから。
参考文献・記事
- 志田陽子『表現者のための憲法入門』武蔵野美術大学出版局、2015年
- 松井茂記『犯罪加害者と表現の自由 「サムの息子法」を考える』岩波書店、2018年
- 青木理×香山リカ×中島正純「少年Aのベストセラー『絶歌』 どう読むのが正しいのか」(週刊現代、2015年7月1日)
- 「やまゆり事件の被告手記、説明付きで出版 刊行に抗議も」(朝日新聞、2018年7月22日)
- 篠田博之:「黒子のバスケ」脅迫事件 被告人の最終意見陳述全文公開(2014年7月18日)
- 今なお共鳴、加藤死刑囚の孤独 ネットに書き込み絶えず(朝日新聞、2018年6月8日)